れいじのなかのれいじ

神威怜司のbookメモ&思考メモです。

自分の限界は、自分のマインドで決まる。 -【書籍】「ムダな努力をやめなさい」 成毛 眞

成毛眞さんの新刊「このムダな努力をやめなさい」読了。

 

成毛さんの物言いは好きなので、ついつい新刊がでると購入してしまいます。そして本書も成毛節が全開。成毛節にやられそうになりながらも、楽しく読ませて頂きました。

 

私がこの本から読みとった内容は、「自分の好きなことをとことんのばす」、そしてその時間を作るために、仕事にムダな努力を費やさない。ということです。

ここで自分の好きなことと、仕事がイコールの場合は何も問題なく、仕事(自分の好きなこと)をとことん追求すればいいのですが、多くの人はそうではないということで、そういう多くの人たち(私も含め)へのアドバイス。

 

自分の好きなことをとことん追求し、それに磨きをかける。それが自分の強みになる。

私の場合はその「自分の好きなこと」ということが、よくわかっていないので、ぼんやりと思う好きなことに手を付けていこうと思いました。(アニメ、マンガ、映画、音楽など...)

 

そして本書の中でもっとも重要だと感じた文章を引用。

 

「「上から目線」でものを見るのは嫌われる行為のベスト3に入りそうだが、私は昔から上から目線でものを見てきた。なぜなら、自分が世の中で一番優秀だと思っていなければ、仕事はうまくいかないと考えているからである。

自信は自然とうまれるものではなく、自らつくり上げるものだ。仕事で成果を出したら自信がつくのではなく、根拠はなくても自分は成し遂げられると信じ込んで行動をすれば成果が伴ってくる。」

 

自分の価値を高めるために非常に重要な考え方。自分の限界は自分のマインドで決まる。

自分自身の人生を振り返ってみると、できると思って挑戦したことは、なんだかんだ達成できていると感じる。

みなさんも一度、自分の達成したことを振り返ってみてはいかがだろうか?案外、自分のマインドが達成に大きく寄与している、と思えるのではないだろうか。

 

私自身も、もっと自分に根拠のない期待をして、大きなことを考えていきたいと思う。

 

 

自分の理想、評価は高く、そして自由にもっていい

 

 

苫米地博士の新刊。

今、自分が悩んでいることに対し、1時間ほどのコーチングをして頂きました。本を読んでいるとたまにこういうことがあるから、本を読むことは面白く、やめられない。

 

本書で定義する「金持ち」は非常にシンプルで、「支出が収入を上回らないこと」としています。シンプルでありながら、まさに本質をついている言葉。

多くの人は、月に15~20万円を稼ぐ能力をもっている。稼ぎ方は正社員でもバイトでも、なんでもいい。本来であれば、そしてこれぐらいの収入があれば金銭的にはそこそこに満足した暮らしができてしまう。ここに仲間や恋人、家族がいればより満足度は高いと考える。

しかしながら、ぼくらは洋服にはデザインや質感、ブランドを求めたいし、おいしく豪華な食事をしたいし、広い家にも住みたい。そしてこれらを求めようと思うと、多くのお金が必要になる。でも、「機能」だけで考えれば、多くのお金は必要としなくなる。それこそ月20万円程度あれば満足できてしまう。この「機能」に満足できるか、できないかは、心の持ち方によってかわってくる。著者が多くの著書で述べているように、本当に重要なことは外にではなく、内(マインド)にある。そして素晴らしいことに人間はこの「マインド」を自分でコントロールすることができるのだ。この本を読んで、マインドのコントロールの重要性が自分の中で、やっと腑に落ちた気がする。

 

こういう風に思えた印象的な本書の言葉はこちら

「満足は、目で見なければできないものではなく、心でするものなのである。」

うーん、いい言葉ですね。

 

そして心を満足させるのに最も簡単なのが、人の役に立つことである。人は他人から「ありがとう」、「助かったよ」といった言葉や、人から承認されることで非常に満足できる。少なくともぼくはできてしまう。この人に役に立つことを仕事と結びつけてしまえば、生きているほとんどの時間を満足感で満たされながらすごすことができてしまうのだ。そしてその仕事がやりたいことなら、なおさら満足である。

 

今は「やりたい仕事」といった、理想を求めることはいいように見られないこともあるが、理想を求めていいのである。自分の理想を限りなく追及し、理想を実現できると思い、実際に実現していくことが、満足感を得ることにつながる。

自分の理想、評価は高く、そして自由に持っていい。

本書はこんなことを思えるように背中を押してくれた。そして今いる自分の状況は悪くないと思え、光がさした。

 

ぜひ興味がでましたら、ご一読を。

「わからない」=「わかる」 -【本】「わからない」という方法 橋本 治

「わからない」ことが「恥」だった二十世紀は過ぎ去った!

この1文に惹かれて本書を購入、一気読み。

 

まえがきから、今まで考えたこともなかった考えに遭遇した。

 

P.9

「わからない」の全体像をまとめる方法が1つだけある。それは、「自分はどのようにわからないのだろうか?」と考えることである。

全体像が見えないのは、それをまとめる”方向”が「わからない」からである。”方向”が1つにならず、あちこちに散乱している。だから、「1つの全体像」にはならない。つまり、その散乱する”方向”を1つにしてしまえば、これはまとまりうるのである。

 

この考え、目からウロコだった。私は「わからなけばまとめられない」と思い込んでいたからだ。「わからない」なら、わからないなりに、”方向”を定めて、まとめてしまえばいいのだ。そしてその方向を定めたら、とりあえず書いてしまう。

立派な文章を書こうとせず、どんな駄文でもいいから、とにかく書いてしまうのだ。その時点でのまとめを作ってしまう。

まずは質よりも「量」。量を書くことで、質も磨かれていく。私はそう信じているが、ついついいい文章を書こう、と思って悩んでしまう。

だが、そもそも「いい文章」というものは、自分で決めるものではなく、読み手が決めるものであるので、自分ではコントロールできないもの。だったら、多くの文章を書いた方がいいのでは?、と最近、思い始めてきたところだ。

 

「へん」と「へんじゃない」。これらを決めるのは多数決である。多い方が「へんじゃない」、少ない方は「へん」である。そのため、「へん」が毎回、少数派になるのは必然であると、著者はいう。なので、「へん」、「へんじゃない」というのは、所属するグループや、時代、年代によって変わる。

たとえば、80代ぐらいの人にとっては、「家柄」というのを大切に考えるのが「へんじゃない」。しかし、20代ぐらいの人にとっては、家柄を考えて人とつき合うのは、「へん」になる。

このように同じ時代に生きている人間の中にも、「へん」、「へんじゃない」というのは、あべこべの関係にあるのだ。なので、「へん」、「へんじゃない」というようなことを、異常に気にしすぎることはないのだ。なにも気にすることはない。

だったら、その考えに至っている理由を考えた方が、有意義な気もする。

 

著者は教育についてもおもしろいことを言う。

 

P.130

「学ぶ」とは、教える側の持つ「生き方」の強制なのである。「その生き方がいやだ」と思われてしまったら、その教育は崩壊する。ただそれだけのことである。

 

なるほどな、と思った。教育とは「生き方」か。今後、自分が教育をしていく上で、非常に参考になる。拒絶されたら、その”教育=生き方”ははやらないということなのだから、教える方法を変えなければならない。いい指標になる。

そして、大学生や高校生、中学生と話すことは、「生き方」を敏感に感じ取るために必要なことなのかもしれない。

 

日本人は英語に弱い、と言われるが、昔から漢文は読んでいたわけで、外国語にはそもそも抵抗はないはずだ。さらには、外国語を自国の言葉の中に取り込んでしまう柔軟性を持っている。

日本人は言語のアレンジ力に優れているのである。これはとても誇れることではないか、と私は思う。

なので、「英語に弱い」という洗脳をずっと引きずっていて、英語に手を出さないだけである。手を出してしまえば、すぐに習得できるのだ。まあ、学習方法も変えなければならないのは、事実としてあるが。

 

そもそも「わからない」ということは、ほとんど「わかる」と等価であると私は思い始めた。なぜなら「わからない」ことを、わかっているからだ。そもそも知らないこと、認識できないことには「わからない」という気持ちすらできていない。

「わからない」ということは恥ではない。もはやわかっているのだ。

いかに「わからない」ことを増やすか。大量の「わからない」ことを知っていることは、「わかっている」知識人と、ほとんど差がないのではないだろうか。

そしてその「わからないこと」と「わからないこと」を自分なりのオリジナルで、自分勝手につなげてしまえばいいのだ。

 

 

行間によって書かれた1冊 -【本】「大不況には本を読む」 橋本 治

本書を読み終わった後に思ったこと、もう1度読み返そう!

 

 

題名に直に関係するところは最後の約30ページほど。あとはその30ページのための伏線である。しかし、この伏線があるからこそ、最後の30ページがすーっと入ってくる。

 

本書の前半、と言うかほとんどは、今日までの世界の経済情勢について、著者が思うことを書き連ねたものである。この部分、著者が「自分で考えたこと」を書いている。

 

本書の中に出てくる、リーマンショックや日本のバブルのような出来事は、ネットで誰でも手に入る情報であるが、その間をつなげる言葉は著者のオリジナルである。

著者が考えた経済情勢の解釈は「あっている」、「まちがっている」が重要なのではなく、1つの主張を最後まで書いたことに大きな価値がある。本書に書いてある解釈は著者にしかできないのだから。そしてその著者の勝手な解釈を読むことに価値があり、そこで生まれる著者との対話が重要である。この対話により、著者の考えを基礎にして、自分の考えを考えることができる。

家は建ててもらって、その家にどのようなインテリアを置くか、考えるような感覚だ。

 

そして著者はこの「自分で考えること」が重要だと、とく。

著者の言葉を借りると、「書かれていない行間を読む」ということになる。

これは私の解釈であるが、これは行間の間を次はあなたの言葉でつなげましょう、ということではないだろうか?

行間を自分の勝手な考えで埋めてみよう、と著者は言っているように聞こえる。そしてその考えは、あっていようが、まちがっていようが関係ないのだ。そもそも正解などないのだから。

 

「考えたこと」に意味があり、その「考えたこと」がいつの日にか世界をよりよい方向にもっていく、1つのピースになるのではないだろうか。

 

著者は経済史の行間を読むことで、新書1冊を書いてしまうのだから。ほんと自由でいいのだ。

 

今の子どもが20歳になるとき...、ぼくは...、そして世界は...

友達がfacebookに1歳ぐらいの男の子の写真をアップしていた。

本当にかわいい、男の子。

この子が20歳になる頃、ぼくは45歳。

その頃の世界はどのようになっているだろうか?、こんなことに妄想を働かせる。

 

世界単位で見れば今よりも良くなっていることは間違いない。なので個人単位でもよりよくなっていて、ほしいと思う。

財政破綻や、失業問題のような閉塞感や恐怖が蔓延するのではなく、未来は希望で溢れ、楽観的な雰囲気をより多くの人が感じれる世界であるといい。

世界の人々がそれぞれ他人を助けあう世界。

子どもはみんな、自分の"want to"と出会え、その"want to"をとことん追求できる世界。

 

いろんな世界に希望を描いている。

 

その中でぼくができることの1つは、これから大人になる子どもたちに、"こんな大人になってもいいかも"、と思われる存在でいること。

生き方の1つのモデルを見せられる大人になりたい...

 

「見ることができない死」の存在 -【本】「特殊清掃」 特掃隊長

本書は「死」について考えさせられた本である。

死は誰にも必ず訪れ、いつ、誰に訪れるかはわからない。本書の解説を書いている、養老先生は「人間の死亡率は100%」とメッセージを世に送っている。

 

 

ブログ 特殊清掃「戦う男たち」

 http://blog.goo.ne.jp/clean110

 

著者は死を身近に感じる職業に就く1人。「特殊清掃」という、人間遺体、動物死骸、糞尿、山積みゴミなどに関係する特殊な汚染汚損を処理するという仕事に従事。著者のブログは話題だったようだが、私は本書で著者を知り、きっとあるだろうなー、と思っていたリアルでなかった仕事がリアルに変わった。

 

毎日、毎日、日本中しかり世界中には死が溢れているにも関わらず、私を含め多くの人は、死を身近に感じる状況にない。それもあってか、私たちは必ず訪れる「死」に対しては不安を感じず、とりあえず脇によけておく。そして起こるかどうだがわからない未来のこと(仕事、金銭、結婚、老後など)に多くの不安を抱いている。よく考えると不思議な思考をしているものだ。

なので、死の近くにいる著者が綴る言葉には、リアリティがあり、その言葉1つ1つに引き込まれる。

 

私は自分の死をぼんやりと考える時、必ず病院のベットの上である。そして家族の死の場合でも同じである。苦しんでいるときもあれば、穏やかに死んでいるときもある。親族がいる時もあれば、いないときもある。但し、その空想の中での私(or 家族)は、「見ることができる姿」の私なのだ。本書を読み進めながら、実は「見ることができる姿」での死は当たり前ではなく、死の1つの姿でしかない、ということがリアルになった。世の中には「見ることができない死」も多くあるのだ。これは「特殊清掃」が仕事として存在している事が裏付けである。

そして不思議と「見ることができない死」の方がリアリティを感じるのだ。これは人間の死ではなく、動物の死(処理されないことが当然の死)という認識になるからなのかもしれない。

 

この「見ることができない姿」での死のリアリティが、自分の死、そして家族、仲間の死をよりリアルにした。

「見ることができない姿」の死が存在するのは、「予想されぬ死」が存在した証でもある。本書の中では自殺のケースも多く取り上げられているが、自殺も本人にとっては予定通りの死であるが、家族にとっては「予想されぬ死」である。

 

本書を読みながら生きることに関して感じたことを言葉にすると、「今を生きるしかない」というようなありきたりな陳腐な言葉になってしまう。

しかし、読んだ本人には言語化できないぼんやりとした雲のようなものが残っている。これは何れ、言葉という雨になって降り注ぐかもしれないが、何とも言えないところである。

 

とりあえず興味がもった方はぜひ読んで頂きたい。

きっと何か感じることがあるだろう。

 

 

大学院に進学しているのは有利?そして進学を迷っている人はぜひ大学院へ

ふと朝、研究室にいくと下記のような張り紙がしてあった。

 

「○○会社への就職を希望するM2(修士2年)の学生は△△(先生の名前)のところに来るように」

 

これを読んであれ?と思った。「なぜ修士2年だけ?学部の4年生も就活だよね?4年生は必要とされてないの??」と。実際に求人も修士の方が多くきているのをふと思い出した。そう思ったら一気に考えが湧いてきたので、それを備忘録的にメモ。

 

まず前提として、「実は会社に入ってから教える本当に重要なことって、数年(1,2年)で教えられてしまうのではないか?。そして体系的な思考フレームをもつ人材を企業はほしがっている。」という仮説がある。

こう考えると、学部4年で就職する場合、思考フレームはほとんど企業の思考フレームで染まる。一方で、修士2年で就職する場合は2年間での思考フレームがあり、そこに企業の思考フレームが入り込む。このため、企業から見ると異なる思考フレームを組み込むことになる。私が思うに、体系的な思考フレームは学部4年生と修士2年生では大きな差があると思っている。少なくとも私の研究室においての、ここ3年は確実である。そして企業は1つの思考フレームよりも、多くの思考フレームがほしい。多様な思考から、画期的なアイディアを創るのだ。

 

企業にとって動くだけの人材ならば、高卒などから安い人件費で調達可能なのだ。大卒(大学院卒も含む)の採用では、こういう人材ではなくマネジメント、アイディアを出せる人材を求めていると考える。そう考えると思考フレームが優れているのは多くの場合、大学院卒になるだろう。給料だって大卒と大体2万ぐらいしか変わらない。年間にて多くて30万ぐらいだ。企業にとってつかえない人材を取ってしまうと年間200万円は軽く超えるので、確実な採用を目指すなら大学院卒をとるだろう。

企業は今後生き残るためのアイディアを出せる人材を求めている。アイディアを出すためには情報が必要である。なので、情報の取り入れ方、取り入れた情報の加工する力をもっている人材がほしい。多くの場合、学部4年生よりも修士の方が情報の取り込み方がうまい。(私がいる理系の大学の場合)

この考えを裏付けるものとして、最近の企業は志望動機を聞かず、やっている研究や雑談的なことを聞く企業が増えているように感じる。これは話す中で、その人の思考フレームを見ているのでないかと考えられる。あとは人柄(人当たりの良さや、組織内で過ごすための常識をもっているかなど)と会社の雰囲気とあうかどうかを見ているのだろう。

採用の時点でどれだけ明確な志望動機や情熱があっても、今後はどうなるかわからないことは企業は知っているのだ。なので情熱とかよりも、本当に企業に利益をもたらす人材かを判断しているのだと思う。情熱だって冷めることは知っている。自分自身でわかっているからだ。

 

また企業の多くは、採用した人材の一部は辞めることを前提に、採用人数を設定していると思う。そして辞めることにより企業にかかるコストは、社員の給料やサービス、製品の値段に反映していると考える。

 

こう考えると、現在、大卒は中途半端なのではないかと考える。

なので大学院進学で迷っている人は、進学してしまっていいのではないだろうか。あと2年ぐらいこの状況は続くのではないだろうか。むしろさらに強固になっていくと私は考えている。