れいじのなかのれいじ

神威怜司のbookメモ&思考メモです。

「わからない」=「わかる」 -【本】「わからない」という方法 橋本 治

「わからない」ことが「恥」だった二十世紀は過ぎ去った!

この1文に惹かれて本書を購入、一気読み。

 

まえがきから、今まで考えたこともなかった考えに遭遇した。

 

P.9

「わからない」の全体像をまとめる方法が1つだけある。それは、「自分はどのようにわからないのだろうか?」と考えることである。

全体像が見えないのは、それをまとめる”方向”が「わからない」からである。”方向”が1つにならず、あちこちに散乱している。だから、「1つの全体像」にはならない。つまり、その散乱する”方向”を1つにしてしまえば、これはまとまりうるのである。

 

この考え、目からウロコだった。私は「わからなけばまとめられない」と思い込んでいたからだ。「わからない」なら、わからないなりに、”方向”を定めて、まとめてしまえばいいのだ。そしてその方向を定めたら、とりあえず書いてしまう。

立派な文章を書こうとせず、どんな駄文でもいいから、とにかく書いてしまうのだ。その時点でのまとめを作ってしまう。

まずは質よりも「量」。量を書くことで、質も磨かれていく。私はそう信じているが、ついついいい文章を書こう、と思って悩んでしまう。

だが、そもそも「いい文章」というものは、自分で決めるものではなく、読み手が決めるものであるので、自分ではコントロールできないもの。だったら、多くの文章を書いた方がいいのでは?、と最近、思い始めてきたところだ。

 

「へん」と「へんじゃない」。これらを決めるのは多数決である。多い方が「へんじゃない」、少ない方は「へん」である。そのため、「へん」が毎回、少数派になるのは必然であると、著者はいう。なので、「へん」、「へんじゃない」というのは、所属するグループや、時代、年代によって変わる。

たとえば、80代ぐらいの人にとっては、「家柄」というのを大切に考えるのが「へんじゃない」。しかし、20代ぐらいの人にとっては、家柄を考えて人とつき合うのは、「へん」になる。

このように同じ時代に生きている人間の中にも、「へん」、「へんじゃない」というのは、あべこべの関係にあるのだ。なので、「へん」、「へんじゃない」というようなことを、異常に気にしすぎることはないのだ。なにも気にすることはない。

だったら、その考えに至っている理由を考えた方が、有意義な気もする。

 

著者は教育についてもおもしろいことを言う。

 

P.130

「学ぶ」とは、教える側の持つ「生き方」の強制なのである。「その生き方がいやだ」と思われてしまったら、その教育は崩壊する。ただそれだけのことである。

 

なるほどな、と思った。教育とは「生き方」か。今後、自分が教育をしていく上で、非常に参考になる。拒絶されたら、その”教育=生き方”ははやらないということなのだから、教える方法を変えなければならない。いい指標になる。

そして、大学生や高校生、中学生と話すことは、「生き方」を敏感に感じ取るために必要なことなのかもしれない。

 

日本人は英語に弱い、と言われるが、昔から漢文は読んでいたわけで、外国語にはそもそも抵抗はないはずだ。さらには、外国語を自国の言葉の中に取り込んでしまう柔軟性を持っている。

日本人は言語のアレンジ力に優れているのである。これはとても誇れることではないか、と私は思う。

なので、「英語に弱い」という洗脳をずっと引きずっていて、英語に手を出さないだけである。手を出してしまえば、すぐに習得できるのだ。まあ、学習方法も変えなければならないのは、事実としてあるが。

 

そもそも「わからない」ということは、ほとんど「わかる」と等価であると私は思い始めた。なぜなら「わからない」ことを、わかっているからだ。そもそも知らないこと、認識できないことには「わからない」という気持ちすらできていない。

「わからない」ということは恥ではない。もはやわかっているのだ。

いかに「わからない」ことを増やすか。大量の「わからない」ことを知っていることは、「わかっている」知識人と、ほとんど差がないのではないだろうか。

そしてその「わからないこと」と「わからないこと」を自分なりのオリジナルで、自分勝手につなげてしまえばいいのだ。