れいじのなかのれいじ

神威怜司のbookメモ&思考メモです。

デザイナーズベイビーとして生を受けた人間は、はたして幸せなのだろうか?

医療分野の未来テクノノジーについて調べていると、「デザイナーズベイビー」という単語を結構耳にする。近年の研究開発の進展で今世紀半ばには「デザイナーズベイビー」が実用化されるのでは?という、意見もある。

 

親の中には一定数、自分の子供をデザインしたい、と思う親もいるだろう。整った顔にする、身体的能力を向上させるなど、デザイナーズベイビーを希望する親によりいろんなデザインが考えられると思う。

デザイナーズベイビーとして生を受けた人間は、通常に生を受けた人間よりもデザインされた能力に関しては能力が高いだろう。その高い能力により、時として、デザイナーズベイビーでない人間と比較すると、優越感を感じることができるだろうが、その優越感にもそのうち慣れてしまうのではないだろうか。

 

常に勝ち続けるゲームがつまらないように。

 

また、デザイナーズベイビーがある程度、商業化されればデザイナーズベイビーの数も多くなるはずで、デザイナーズベイビー同士での競争に晒されることになる。すると、優越感を得られるデザイナーズベイビーと、そうでないデザイナーズベイビーが出てくるはずである。結局は今の我々と変わらない競争にデザイナーズベイビーも晒されることが予測される。

デザイナーズベイビーの数が少ないうちは希少性としてメリットが出てくるが、ある一定数を越えると、デザイナーズベイビーのコミュニティが形成されるはずで、そのコミュニティ内で自分の場所を確保することが、人間にとっての達成感や優越感に繋がる。

デザインされていない人間と過ごしていても、常にデザイナーズベイビーは高い能力を示すだろうから、勝ち負けと考えると常に勝っていることになる。

デザイナーズベイビーの能力がどれほどまで向上できるかはわからないが、結局、今の私たちがチンパンジーと比較して、「自分の方が優れている」と思わないように、デザイナーズベイビーにより生を受けた人間も、デザインされていない人間と比較して、優越感を得られる期間はそう長くないと推測する。

 

結局のところ、デザイナーズベイビーとして生を受けた人間も、我々と同様に、自分の能力を向上させていき、これまでできなかったことができるようになった時に、達成感を感じるのだと思う。

これは「人間」という種類に本来から備わっている原始的な欲求である。

デザイナーズベイビーの親としては、素晴らしい能力を持った子供なだけに、親としての優越感や幸福感を感じるかもしれないが、子供も同様に思うかといえば、そうではないと私は感じる。

 

なので、子供のためにデザイナーズベイビーとするのは間違いで、デザイナーズベイビーは親のためでしかなく、子供の為にはなりえない、というのが私の考えだ。

私は決してデザイナーズベイビーを否定しているわけではなく、実用化されたところで高い能力のところでの競争が生まれるだけで、その子自身の幸福にはなんら関与しないと思っている。

むしろ、デザイナーズベイビーの高い能力を自分自身の目で見てみたい気持ちもあるが、自分の子供をデザインしようとは、今の私の価値観では思わない。