富の再分配よりも、まずは心の整理を。
人体から宇宙まで 情報資源、世界を一変(データの世紀)
心地よい時間を過ごせる「Jazz Bar Solitude(ソリチュード)」
所用があり、札幌に行くことがあった。
前々から「Jazz Barには行きたい」と思っていたが、なんやかんやで行くことがなかった。そんな中で、「今回こそは!」と思い、ネットでJazz Barを検索してみた。検索結果として、いくつかのJazz Barが出てきたが、「どこに行こうか」とあれこれ悩んでいる内に、いつものごとく面倒な気持ちになってきて、足はホテルの方向に向かっていた。
その道の途中でたまたま見つけたのが、本entryで紹介する「Jazz Bar Solitude(ソリチュード)」である。
まさに偶然で見つけたJazz Bar。入口はひっそりとしており、見つけたのは本当に偶々と言える。
ソリチュードに行った後日、本店をネット検索をしてみたところ、「入口を見逃しやすい」と書き込みがあったが、まさにその通り。そして重量感がある入口のドア。ドアを閉めると街の喧騒が少し収まる。店は階段の先にあるため、店内は見えないず、ひっそりとした階段を下りていくと店内に入る。入口のドアから店内までの雰囲気、そして店内の雰囲気は何とも言葉にできるものでもないので(少なくとも私の文章力ではなんとも陳腐になってしまうので書かない)、実際に行って直で感じてほしい。
私が伺った時にはマスターの他に、お客様が1名。
カウンター席が8席程度あり、カウンターが伸びる形でテーブル席がある。マスターの目がきちんと届くサイズ感。
そして控えめな音量でJazzが流れている。
初めは1人で飲んでいたが、お客様が話を振ってくださり、一緒に飲ませて頂いた。
こういった即興での出会いがあるから、バーに行くのは止められない。
音楽から映画、本、仕事の話と、実にいろんな話をお客様とマスターとできた。そしてすべて私の知っている範囲外のものばかりで、とてもいい刺激を受けた。やはり、年代やバックグラウンドが異なる人の会話はおもしろく、興味深い。
グレンフィディックのソーダ割を飲んだのだが、すっきりしている中に風味はしかっりと感じ取れて、とてもおいしかった。割り方が絶妙なのだろう。グレンフィディックはストレートやロックでは飲んだことがあったが、ソーダ割は初めてであった。スコッチのシングルモルトのソーダ割もありなんだ、と感動した。
とてもいい夜を過ごせたバーであった。
また札幌に来た際にはぜひ伺いたい。
今日の夜と人生に乾杯。
心にじわじわと染み渡る数々のエッセイ -「村上ラヂオ3」 村上春樹ー
やることに追われた日々がひと段落して、たまたま手に取って読み始めた一冊。
ここ1か月はまともに本が読めなかった。
「時間がない」というのは、僕は好きではないので極力言わないようにしているが、ここ一か月の間には何度か無意識の内に口に出してしまっているのではないだろうか。僕は「時間がない」とか、「忙しい」という言葉は使わず、「やることが多い」と言うことにしている。どれも同じじゃないか!、と言われたら、「そうね。」としか言えないが、僕の中では「忙しい」と「やることが多い」では、大きなニュアンスの違いがあるのだ。「忙しい」というのは、自分の限界を決めてしまっている言葉のようで、僕は好きじゃない。
そんな「やることが多かった」日々がひと段落した際に読んだ。村上春樹氏の著作は好きでよく読む。本書も書店で見つけて購入以来、半年以上、読まずに温めていた本だ。
本というのは不思議で、自分にとって必要な時に必要な本を手にとる、セレンディピティがある。本書は僕にとってのセレンディピティだった本だ。少し、いや、だいぶ疲れていた心に、村上春樹さんの文章がじわじわと染み渡った。これが村上春樹さんの小説だったら、このような気持ちにはならなかっただろう。エッセイだったからよかったのだ。
村上春樹さんのエッセイは日常の何気ない事に焦点を当てて、その何気ない事を村上春樹さんの言葉で掘り下げて語ってくれるのがいい。その文章を読んでいて、ほっこりとして、安心した気持ちになれる。
「昼寝の達人」が僕の中ではよかった。
ある文章に惹かれたというよりは、このエッセイ全体の雰囲気がよかった。やることが多いと気持ちに余裕がなくなって、ネガティブな感情が多くこみ上げてくるのだが、そんなネガティブな感情を抑えてくれる文章だった。
昼寝をしてリフレッシュすればいいのだ。
ネガティブな時は昼寝をしようぜ。
と、僕に優しく諭してくれた。
僕がこのエッセイを読んだのは夜だったので、さすがに昼寝はしなかったが、昼寝をしたような効果をもたらしてくれた。気持ちが楽になった。
そもそも昼寝ではなく、夕寝か、、、
また「コップに半分」のエッセイでは元気づけられた文章があった。
村上春樹さんは長編小説に取り掛かるときに以下の気持ちを確信を持って臨むそうだ。
「よし、これは絶対に完成できる」
僕は文章を書くときに自分の文章に自信がなく、ついつい、筆が止まってしまうことがある。
でもそれではダメで、とにかく、自分に自信をもって、その自信に根拠のない確信を持って、文章を書いていこう、と激励を貰った。
「僕にはこの文章は絶対に完成できる」
いやー、やっぱり本はいい。本がなかったら確実に僕の人生は破綻をきたしている。
とにかく、この本から元気をもらったので、また仕事を進めてしまう。
あなたもきっと、本書に収められているエッセイのどれかには心の琴線が触れるはずです。ぜひ読んで、心を少しでも落ち着かせてください。
『未来』は予測できないことを教えてくれる一冊 -2050年 衝撃の未来予想 苫米地 英人ー
苫米地英人氏の新刊。
といっても、このentryを書いている今ではすでに新刊ではなくなってしまったが、、、
そもそも私が本書を手に取るのが遅かった、というのもあるし、読了してからentryを書くまでに時間も過ぎてしまったというのがある。
新刊で出たときに、好きな著者であることに加え、未来予測に興味がある私としては、読みたい!と思ったが、なかなか購入までは踏み切れなかった。
しかし、本書を読み進めていくと、「もっと早く買って、読んでいればよかったっ!!!」と、悔しくも思いながら、グングンと読み進め、読了してしまった。
私なりに解釈した本書のメッセージは以下である。
5年、10年先という先が読める未来は『未来』ではなく、実現する現実でしかない。もっと先の『未来』は誰も読めないもの。『未来』は読めないのだから、今、私たちができることは自分のやりたいことをやること。
5年、10年先の未来はすでに権力者によってデザインされており、その中で成功したところで、権力者の手の中で踊らされているに過ぎない。というのを、苫米地氏自身の通訳者、そして研究者としてのキャリアから様々な例を上げて説明している。この部分を読むだけでも価値がある。
そして30年、40年後の未来での通貨の在り方、それに伴う国家の在り方や、テロの脅威についても論じていて、思考の幅を広げてもらえる。
私はこれまで「未来はテクノロジーにより、より良くなる」という論調の本をよく読んできたので、そんな私にとっては「飛躍的なテクノロジーの発展によっても、やはり未来はユートピアにはならないんだな。」と思わせてくれた本である。
ただし、未来がデストピアか?といったら、そうでもなく、未来のなるだろう姿の一例を、リアリティに感じさせてくれる。
今までもそうであるが、これからも人類史上で最も豊かな時代は継続してく。ただし、その豊かさに私たちは慣れてしまうので、結局は時代の空気に惑わされ、不幸な人もでてきてしまう。みんながテクノロジーによって幸福になれるのではなく、幸福は自分で創り出すしかないのだ。そして、その「幸福」という感情を創るのは自分自身でしかない。自分のマインドを自分でコントロールすることが、幸福に繋がる。これは今でも変わらないし、これからも変わらない。人間の基本OSは2000年以上更新されていないのだから、結局は自分次第なのだ。
アプリ(道具)は飛躍的に増えたが、人のあり方は変わっていない。
だから、私たちは子孫を残そうとするし、人に愛されたいと思う。より多くの資産が欲しいと思う。そして、殺人はなくならないし、戦争もなくならない。
結局、「今」生きている時間が重要なのであって、過去も未来の姿もすべて自分で勝手に創り出したことに過ぎないのだ。その勝手なイメージがポジティブなものであればいいが、そのイメージがネガティブなもので、そのイメージに縛られて、不幸を感じるのは避けたいところ。
「今」を決めるのは、今している行動である。自分がやっている行動が楽しければ、楽しい気分になるし、やっている行動が辛い、苦しいものであれば、嫌な気分になる。そして、人間はその時の気分によって、世界から取り入れる情報を変えている。だから、自分が楽しい!と思う、やりたいことをやって、その楽しい行動を積み重ねていくのが、未来の自分への資産になるのだ。楽しい行動というのは、成長の原動力にもなる。そして、やりたいことをやっていればその行動に没頭するので、争いを起こそうなんて思わない。
しかし、この「やりたいこと」が自分でわかっている人とわかっていない人に、格差が生じているのが現代である。 「やりたいこと」は自分で見つけるしかないし、見つけるためにはいろんなことにチャレンジすることが大事。そしていろんなことにチャレンジするためには大抵の場合、マインドも変える必要がある。ざっくり言ってしまえば、「気の持ちよう」ということになり、自分の気持ち次第になるのだ。ただ、自分の気持ちに素直になることに対し、ブレーキをかけるのが、世間の雰囲気である。この雰囲気からいかに離脱できるか、いい意味で空気が読めないやつ、になるかは、いろいろと世の仕組みを勉強する必要があるし、コーチングも必要になってくる場合がある。
長々と書いたが、私としてはいろいろと思うことがある。そして、本書はいろいろと思考を巡らすきっかけをいくつも与えてくれる。これは私だけでなく、本entryを読んでくれている読者も同様だと思う。ただ、私と同様の考えにはならないだろう。だが、思考のエンジンは動くはずだ。
本書で思考のエンジンを動かしてみてください。
「Noblesse Oblige。今後も救世主たらんことを」 -アニメ・東のエデンー
アニメ・東のエデンを数年ぶりに見返した。
「Noblesse Oblige。今後も救世主たらんことを」
やはりこのアニメで印象に残るセリフと言ったら、このセリフだ。
「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」
ノブレスオブリージュとは (ノブレスオブリージュとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
日本語に訳すと、「高貴なる者に伴う義務」の意になる、フランス語。この言葉は大学時代の恩師から、大学院時代に貰った言葉でもあるので、自分の中でも印象に残っている。恩師の意図と私の理解が一致していたかは、怪しい。ただ、この言葉を貰ってから5年ほどたつが、言葉を貰った当初から今の私の理解は異なっている。
言葉を貰った当初は、「選ばれし者の義務」的なものかな?という理解であったが、今では「自分の場所で頑張りなさい」という意味に捉えている。
自分が今いる場所は、自分が選んできた道でもあると共に、周りとの関係性によりたまたま導かれた場所でもあると思っている。この場所は自分にとって何か縁があることだと思っているのが、今の僕だ。たまたまいる役割であり、大きな不満もなければ、その役割を全うしようと思っている。
このようなことから、僕の中での「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」は「自分の場所で頑張りなさい」になっている。これからまた、関係性によって意味は変わっていくかもしれないが、現状は「自分の場所で頑張りなさい」だ。
アニメ・東のエデンでは国を良くするために100億円を自由に使う義務が「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」として与えられる。
この100億円というのが、考えてみると、自由度がある程度制限された金額だなと思う。膨大な金額のように見えて、自分の欲望のために使ったとしてもすぐに使い切れるだろうし、国をよくするために使うのであれば、できることに自ずと制限が加わる金額だ。
自由度が制限されているということは、100億円を使う人間の思想が関与せざる負えないはずで、その思想の多様性が重要であると思われる。その多様性により、多くの分野の課題、歪が解消されるのではないかと、考えている。
東のエデンでは12人(正確には11人)に1人100億円ずつ渡される。選ばれたものは「クレソン」と呼ばれる。これは上記の理由から1人に1100億円与えるよりも、国を良くする可能性が高い気がする。私自身、人間1人の考えというのはたかが知れていると思っているのと同時に、1人が独裁的に政策を行ってもよい社会にはならない、と思っている。独裁的政策が有効的でない、ことについては歴史も証明している。
また、人間の思考は外部からの情報によって拡張されるので、お金の使用履歴がクレソン内で情報共有されるのもいい仕組みだな、と思った。他人のお金の使い方に自分の思考が刺激されて、これまで思いつかなかった使い道が見えてくるかもしれない。
というか、日本政府も年に10人程度クレソンを選別して、1人100億円を渡してみたらどうだろうか。日本政府でなくても、どこかの財団がやれそうな気がする。選別者は毎年変えるのがいい。選別者の方にも多様性を求めたい。
この仕組みを実施した差異には、100億円の使い道を、望むものすべに開示し、意見を求める仕組みを作るとおもしろい気がするが、破綻する感も否めない。やってみないとわからないなー。やっぱりクレソン内での共有に限定した方がいいだろうか。
「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」の意味をいろいろとネット検索したときに、考え方として共感したのがイケダハヤトさんの考え方。
ノブレス・オブリージュと日本人 : まだ東京で消耗してるの?
「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」の考え方が、セーフティーネットになる、というのはいいなと思った。「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」について考えている方は、ぜひ一読いただきたい。
今の時代、変化が速く、明日はどうなるかわからない時代である。レイ・カーツワイルによれば、テクノロジーの進化は指数関数的に増大していくので、これからの変化はより加速していくと言われている。指数関数的に変化する時代において、線形的な考え方をし、ゆっくりと進化してきた人類にとっては、たまたま適応できる人と適応できない人が極端に分かれていくのではないだろうか。そして、たまたま適応できた人でも永遠に適応し続けられるとは限らない。
これからの時代は、より、偶然性が高くなっていくだろう。だからこそ、公的なセーフティーネットは変えるのに多くのステップを必要とするため、よりフレキシブルなセーフティーネットがこれからの時代には求められる。その1つ考え方として、「個人」がセーフティーネット機能を担うための、「Noblesse Oblige(ノブレス・オブリージュ)」の捉え方はいいな、と感じた。
東のエデンを見てない方で、興味が出た方はぜひ見てみてください。
Huluでは配信しています。
人工知能時代の労働とは。 「人間さまお断り」 ジェリー・カプラン
本書、おすすめです。
もう一度読もうと思うが、再読する前に一度、自分自身の思考の整理もかねて本エントリーを書く。
著者は「人工知能(AI)」の言葉の生みの親でもある、ジョン・マッカーシーとともにスタンフォード人工知能研究所で研究をしていた人物。そのため、人工知能の知識は深い。さらに起業家としても活動していたことから、ビジネスの経験も豊富である。
そんな著者がこれからより本格化する人工知能時代の経済と労働についての考えを著した一冊。
現在で考えると、「そんなこと起こらないよ」という事象も、過去の事象と重ね合わせることで、「未来では実際に起こってしまいそう」と思わせる、うまい文章。比喩がわかりやすい。中でも最後の「導出(アウトロダクション)」での「音楽」を例にとった、これまでの時代における、蓄音機の発明や、アナログ録音からデジタル録音への移行といった音楽業界で起こった技術革新において、その時代時代での有識者たちの残した言葉を引用し、現在で考えると当時のこの考えっておかしくない?、ということを紹介している。
この部分を読むと、技術革新が時代に与えるインパクトというものを正確に捉えるには難しんだな、ということがわかる。そして、これまで読んできた人工知能や未来技術に関する本の内容から推測するに、小さい声(意見)の方がその技術が一般的になった時代と近い考えである傾向にある。
本書の中では住宅ローンならぬ、「職業訓練ローン」の考え方がおもしろいと思った。この職業訓練ローン(本書内では略して「就活ローン」とも呼んでいる)は、未来の一部給与を担保にし、ローンを組んでいる企業が必要な技能・技術を学ばせる支援をするものである。学ばせ方はある一定期間を学校に通わせてもいいし、実務の中で学ばせていく形態でもいい。
この仕組みのいいところは、何しろ学ぶ技能・技術は企業が選んでいるので、学んだ後はきちんとその学んだことで仕事ができるようになる。現在の高等教育の仕組み(大学や専門学校等)だと、学べる技能が限定的あるいは、かなりの専門的であることに加え、学んだ後にその技能が企業が求める技能とマッチングするかはわからない。おそらく現状においてはマッチングするケースは稀だと思われる。
職業訓練ローンは私の中では、日本における新卒のようなイメージではないかと思っている。新卒は採用する企業が求める技能・技術はほとんど持っていないのに、採用され、採用された後に給料をもらいながら、その企業に必要とされる技術を学んでいく。採用の際には、その人物が持っているポテンシャルが重視される。職業訓練ローンはこの新卒採用システムのようなものであると、私は解釈して、「新卒」という括りをなくし、年齢に関係なポテンシャル採用をするような制度だ。
これで就職が楽になる、仕事に常にありつけるか、といったらそうではなく、数値化が難しい人間性の資質がより重要性を持ってくると私は思う。企業が未来の労働力を担保に、教育を施そうと思う人物には、将来に渡って企業に利益を与えてくれる人物でなければならないはずだ。そう考えると、人に嫌なことを平気で言う、やる気がない、向上心がない、といった人を採用することは稀であろう。仕事はあくまでも他人と協力して行うものなので、人間性が低い人は職業訓練ローンをなかなか組めないかもしれない。これまで仕事をする上で大事とされてきた道徳的な能力は依然として必要とされるのは言うまでもない。
なので、職業訓練ローンは決してユートピア的な解決策ではないが、今の教育から仕事に繋がるひずみを解消できる解決案としてはいいな、と感じた。奨学金を借りてまで一生懸命学んだのに、その学んだことが社会に評価されない、ということはなくなってほしい。
これまでは学ぶ対象を選択した人間の自己責任としてすんでいた面もあるかもしれないが、これからのより変化が激しくなるであろう時代では、自己責任では済まされなくなってくる。これまでの時代も人間は正確に読めてないのだから、進化のスピードがより指数関数的に増加するこれからの時代においては、より予測はつかない。だからこそ、働きたい意欲がある人にはきちんと働いてもらった方がよりよい社会の実現が速くなるのではないだろうか。
その方が人類はより早く、より高いステージに上がっていける。
落合陽一氏の著書「超AI時代の生存戦略」を読んで
「現代の魔法使い」と呼ばれる落合 陽一氏の3冊目の著書。
落合氏は食生活が変わっていることでも知られている。炭水化物は眠くなるからなるべく接種せず、基本の食事はグミという。カップ麺を食べるときでも、お湯は入れずにそのまま食べる、とのこと。こうすることで、カップ麺を時間がたっても食べられるのでいい、という。なかなか変わった人だ。
本書ではこれからの時代を「超AI時代」と呼び、超AI時代はどんな時代か、超AI時代での「生き方」、「働き方」、「生活習慣」に大きく分け、合計34のキーワードを立て、各キーワードについて考えを述べている。
私の印象に残っているものは「趣味性」である。
機械、コンピューターがどんどんと人間の労働を肩代わりしていってくれる時代では、人間にしかできないこと、の重要性はどんどん高まっていく。これは最近では至るところで言われていることだ。
このような中で落合氏は人間にしかできないことの1つに「趣味を持てること」を挙げている。現在とこれから数十年のコンピューターは特定の入力があって、特定の出力をするものである。
しかし人間はいろんな入力から、「これやりたい」、「こうしてみようかな」といったモチベーションが湧き出てくる。そしてなぜこんなモチベーションが出てくるのか、相手はもちろんのところ、自分でも明確に理由はわからない。ただ自分の心の中の琴線に触れたのだろう。この琴線は目で見えるものでないし、自分でわかっているものでもない。
この琴線に触れたときに感じる感情が、「かっこいい」とか「すごい」とか「いいな」という感情なのだろう。このようなことはコンピューターには生み出せないものである。将来的にはできるのかもしれないが、今、そして数十年は無理だろうと私は思っている。これから数十年はあくまでもコンピューターは人間の道具であり続けると思う。人間の能力を助けたり、人間の労働時間を減らしてくれるものである。そして生産性を高めて生まれた時間を趣味に費やすことができるようになる。
この世は人間皆が同じ趣味をしているわけでなく、趣味は多様にあり、その多様な趣味を我々人類は楽しんでいる。
僕の友達は釣りにはまっているが、僕は釣りにははまっていない。友達からおもしろいよ、と言われてもなかなか腰が上がらない。この「はまる」というのは人間特有の個性で、今後も大切にされるべきものだろう。
この自分が感じる感覚を大切にするのがこれからの世界で重要になっていて、はまれる趣味っていうのは、自分の個性を高めるものになる。
そして落合氏ははまれる趣味を3つ持つことを推奨している。1つではなく、2つでもなく、3つだ。人間は「3」が好き、ということも言われるがそれで3つではないと思う。
このようなことは言い方、表現を変えて堀江貴文氏の最近の著書「すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (光文社新書)」でも、藤原和博氏も言っている。
藤原氏が言っている自分の強みが3つになると三角形が作れて、この三角形の内面積が自分の信用、自分のオリジナリティになるといっていて、腑に落ちる。
点が3つになることで、面積が生まれるのだ。この面積をいかに作るかが、今後の世界では重要であり、この面積の作り方に正解はなくて、自分で各頂点を決めて作っていかなければならない。
この各頂点を決める指標となるのが趣味である。長く続く趣味は自分で「いいな」と思っているものである。無理やりやっている趣味は長く続かない。長く続かないとなかなか自分の三角形の中の頂点の1つにするのは難しい。
これからはこれまで以上に自分の好きなことをやって生きられる時代である。が、この好きなことは自分で決めなければならない、という点で難しい人には難しい時代になるかもしれない。
超AI時代の生存戦略 ~シンギュラリティ<2040年代>に備える34のリスト
- 作者: 落合陽一
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2017/03/18
- メディア: 単行本
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