れいじのなかのれいじ

神威怜司のbookメモ&思考メモです。

一気に世界に引き込まれる出会い -【本】「ぼくは勉強ができない」 山田 詠美

こんなにすらすら読めてしまった、そして世界に引き込まれた小説は久しぶり。昨日の夜、10時ぐらいから読み始めて、寝なきゃ、寝なきゃと思いながら、気が付いたら本編はすべて読み終わっていた。番外編は「さすがに読んではまずい」と思い、今日に持ち越した。そして今日、待ち時間のある実験中に読了。

山田詠美さんの本は初めて読んだけれども、ここまでおもしろいとは!!登場人物がとても魅力的。特に、主人公の秀美が魅力的すぎる。世間の価値観ではなく、自分の価値観を軸にして生きているところにとても憧れてしまう。現在25歳だが、高校生の秀美から学ぶ気づきは多く、自分の目指している価値観が秀美を通じて浮かび上がってくる。

もし自分が親になったときには、仁子のような親になりたいと思った。子供の価値観は、子供に決めさせる。自分はなるべく価値観形成には邪魔しようとしない考え方が好きだ。

 

下記の2文はぼくの心に響いた文章。

 

P.44

贅沢だなあと、湯船につかるたびに、ぼくは思う。ささやかなことに、満足感を味わう瞬間を重ねて行けば、それは、幸せなように思える。

 

いい文章である。満足感は日常から外れたところにあるのではなく、日常の中にあることを気づかせてくれる一文。現実はあまりにもあたり前すぎて、退屈なものであり、満足することを求めているが、実は今の状態にも満足できることは多くあることに気づく。満足のことにも気づきつつ、自分の理想としてある満たされないものを満たしていこうと思う。

 

 

P.108

自分は、こう思う。そのことだけでは満足出来ずに人の賛同を得ようとする種類の人間たち。その人々は、自分の理論を組み立てた結果以外のものを認めない。どんな論理にも隙間があるのを信じようとはしない。

 

この文章によって、自分はこのような人間になっていないか、と自問自答してしまった。自分の思いは自分の思いとして主張するが、決して他人に意見を押し付けてはならない。賛同するか、しないかは相手が決めることなのだ。相手の意見を柔軟に受け止められる人間になりたいと思う。

 

 

山田詠美さんの本をもっと読んでみよう。次は今月末に文庫化して発売される「学問」を読んでみようかな。

原子力に関する現時点でのぼくの意見

最近、原子力に関する本を読んでいるが、読んでいて思うのは「原子力は必要」ということ。そして原子力はなくてもなんとかなるが、原子力を利用した方が経済的にも健康面でもぼくたちにメリットが大きい。原子力の負の局面にだけ焦点をあてるのではなく、光の部分にも焦点をあててもらいたい。今は原子力に関して積極的に情報を集めていかなければ、負に偏った情報しか得ることができない。原子力に反対する人に、原子力に関する様々な角度からのデータをみて、その上で再度考えてもらいたい。

 

ぼくは日本で原子力を辞める方向から舵を切ることを望む。日本には世界に誇れる技術力があるのだから、その技術力を生かし、他国のエネルギーを豊かにしようではないか。エネルギーが十分に供給されるようになれば、世界の戦争は減ると思う。そして原子力でエネルギーをまかなっている間に、再生可能エネルギーや核融合エネルギーのイノベーションも起こってくるのではないだろうか。

ここで原子力を辞めて、かつてのアメリカのように技術を衰退させてしまうのはもったいない。もっと、もっと技術を高めて、原子力を大きな産業にしてみてもいいのではないか。原子力が大きな産業になれば、研究・開発も活発になり、イノベーションも進む。これによってより安全性が高まったり、次世代の原子炉の実現が早くなったり、バックエンドの技術もより向上していくのではないか。このようなポジティブシナリオは、ぼく自身が原子力に関わっていることが大きく関係していると思うが。しかし、みすみす日本が世界に誇る技術を手放してしまうのはもったいない。たとえ脱原発になっても企業には原子力の研究開発、サービスの提供は辞めてもらいたくない。

 

ここからは妄想になるが...

日本で、ある地域のみ原子力発電を行える地域、例えば原子力特区を作ってみたらどうだろうか?

放射線の基準をその特区だけ100mSv/年することで、まず原子力の運転コストが下がる。そしてその下がった電力と低い法人税を売りに企業を誘致するのだ。100mSv/年では発癌のリスクは受動喫煙と同程度なので、この特区に工場を構える企業はあると思う。工場がくれば、雇用が生まれる。受動喫煙程度のリスクと知れば、ここで働こうとする日本人も必ずいる。そしてカジノ等のエンターテイメントを充実させリゾートの一面もつけることで、所得税も世界最低の水準に下げることで、世界の富裕層をよびこめるかもしれない。

キャッチコピーは「死の灰の都市 and/or 楽園の都市。どちらになるかはあなたの気持ち次第」。

加えて、この地域でベーシックインカムを採用してはどうだろうか?泊まることのできる格安もしくは無料のネットカフェも建設するのだ。衣、食はベーシックインカムで賄え、このネカフェによって住も賄えるようにする。働きたくなったら、多くの工場があるので職はある。富裕層の家の掃除等をやってもいい。

ぼくは今でこそ、北海道に住んでいるが、このような特区があったら間違いなく移り住むだろう。そして原子力関連の研究機関で格安、もしくは無休で働ければ楽しいだろうな。

 

妄想はこんな感じで。

 

とにかく多くの人に原子力についての正しい知識をもってもらえたならな、と思う。その知識を学ぶ上で下記の2冊はいい本であった。この本での知識をもとにブログには書いているが、間違っている個所もあるかもしれない。間違っている個所があったら、知らせてもらいたい。それによりぼくの原子力に関する知識がより正しくなるので。

 次は反原発の人の本を読んで、原子力の別の視点も得たいと思う。

 

 

現在のところ原子力は必須である -【本】「反原発」の不都合な真実 藤沢 数希

 

 本書を読んで、原子力発電の重要性を再認識した。

むしろ重要ではなく、必須であろう。

本書の帯には「感情論を超えた議論のために。」と書いてあるが、まさにこの言葉とおりである。

原子力は「危険だ、危険だ」と言われるが、具体的にどのくらい、なぜ危険か、と問われるとすんなりとは答えられない。その漠然とした危険性について、著者は数々のデータを使用して説明している。そしてデータからの検証の結果、健康被害という面では火力発電の方が圧倒的に被害が大きいとしている。火力発電では化石燃料を燃やすことによる大気汚染が人体に深刻な健康被害を加えているのだ。日本において、火力発電に起因する大気汚染による年間の平均死者数は約6300人になるとしている。原子力発電は大気汚染を引き起こす有害物質をほとんど出さないので(燃料が化石燃料ではないため)、大気汚染による死者はほぼゼロであろう。健康被害を考えた場合、原子力発電よりも火力発電の方が罪が重い。

 

放射線による死者についても、今回の震災では現在のところゼロである。放射線による被害は時間が経てば経つほど、安全になるので今後死者が出る可能性は限りなく低いだろう。

そして放射線による発癌のリスクも100mSv/年以下では、影響があるかどうかが専門家の中でも意見が分かれている。この100mSv/年という値だが、受動喫煙による発癌のリスクと同程度である。日本では喫煙は法律では禁止されていないので、誰でも100mSv/年のリスクにはさらされているのである。しかし今、除染で騒がれているのは20mSv/年である。このような低線量の放射線を限りなくゼロにしようとするのは、まったくもって税金の無駄遣いというものである。これは受動喫煙で考えれば、発癌の危険性を低くするために、税金を使って街中に空気清浄器を設置するようなものである。除染の費用を復興のための予算にすればいいのにと思うのは私だけではないだろう。

 

原子力発電をやめて自然エネルギーで補おうという計画もあるが、どう考えても国土の狭い日本で日本中の電力を自然エネルギーで補うのには無理がある。土地が全然足りない。

私は自然エネルギーによるエネルギー供給を夢見ているが、この夢はまだまだほど遠い夢であることを実感した。

 

やはり現在のところ、日本だけではなく世界においても増加するエネルギー需要を満たすには原子力は必要不可欠なものである。「脱原発」をするというのは最高の贅沢なのである。経済的にみても、脱原発により原子力発電の発電量分を火力発電で補うため、化石燃料購入の追加費用が年3兆円ほど余分にかかってしまう。そしてこのコストは中東に流れる。私は追加費用の年3兆円分を脱原発を行わずに、被災地の復興のために使うことがいいと思うのだが、多くの国民は脱原発をして、追加コストを被災地ではなく中東に払いたいらしい。

 

このように金銭的にも健康にも原子力発電は優しいというのがわかる。確かに原子力の不安はある。しかし、その不安が現実になる(今回の福島のような事故)確率は今後はより低くなるのではないか。なぜなら技術はこのような事故があることで、より安全になっていくからだ。技術はトライ&エラーで向上していくのである。

この本は多くの人に読んでもらいたい。そしてその上で、原発を停止する、しない、の議論が再度されればと思う。

 

コピペレポートが見破られる!?

「コピペルナー」というソフトを知っていますか?

http://www.ank.co.jp/works/products/copypelna/

ぼくは今日知ったのですが、このソフトは論文やレポートの文章を、コピペで作ったものか、そうじゃないか、を判別するものです。レポートの中のどの文章が、どの文献の引用に対応するかまでわかってしまうようです。すごいソフトが出たものだ、と思ったのですが、同時に疑問も生まれました。

こういうソフトを導入してまで、現在のようなネットからコピペで作れてしまうレポート課題を課す必要があるのか?、と。

今の時代、ネットの情報は人類みんなが共有すべき情報だとぼくは思っています。なので、ネットの情報から引用をしてくるのは健全なことだと思っています。それは本から情報を引用してくるのと同じではないかと。ネットがダメなら、本もダメといっているようなもの。レポートを何も情報資料を見ず、引用せずに書くなんて無理だと思います。

また極論ですが、100%コピペでもいいじゃないかなー、と思うんですけどね。真面目にやろうが、手を抜こうが、どちらだっていいような気がします。真面目にやったらやったなりに何か得ることはあるでしょうし、コピペをしたら本来ならばレポートに1時間かかるところを30分で終わらせてしまえば、残りの30分を自分がやりたいことに使えます。

先生としては、真面目に取り組んでほしいので、コピペルナーのようなソフトを導入するんでしょうけど、それだったらレポートの課題をコピペできない課題に変えるほうがよくない?、と思いました。

たとえば、出席と実際の試験だけで点数をつけてもいいわけです。レポートも授業中に提出するようにするとか。それか点数の比重を100%、試験や出席にしてしまうとか。

内容もマイナーな本(ネットにほとんど情報がない)を読まないとできないものにするとか。

レポート課題に関連するテーマの本を自分で選んで、その中の数ページを写経させて、その部分に関する感想、考えを書いてもらうとか。

世界史や日本史だったら、歴史的な出来事の絵を書かせてもいい訳です。

なんか工夫次第でいろいろあるような気がします。

 

むしろ人類の知識を蓄積しているネットが使える時代にいるんだから、ネットでできることはネットにやらせていいと思うんですよね。レポート課題にはやりたいものもあれば、やりたくないものもある。やりたくないものにはなるべく時間を使いたくないじゃないですか。やりたくないものはなるべく最小の労力でやりたいと思うのが普通なんですよ。そして現在の日本の大学の制度では、やりたくないものでもやらなければ単位がでなくて、卒業できないですし。まあ、システムそのものなから見直すとなると、このentryが収集つかなくなりそうなのでやめますけど。

今はデジタル社会なのだから、コピペは簡単にできてしまう。なので学生にレポートで苦労をさせたかったら、デジタルを使って作製できてしまう課題はナンセンス。だったらアナログにすべき。

ぼくはこのソフトを講義レポートに対して使うのは有効じゃない気がするんですよね。

 

しかしこのソフト、論文執筆の際にはとても使える気がします。自分の中では執筆した論文に関するすべての論文にあたったつもりでも、見落としがあるかもしれない。なので、自分の論文がどれぐらいの新規性があるのかを調べられるのはとても便利だと思います。

 

ぜひ一度このソフト使ってみたいものです。

これからも似たようなソフトがどんどんでてきそう。むしろもうたくさん出ていて、自分が知らなかっただけかもしれないけども...

 

ネットにおける「発言の重み」

遅いですが、ネット上で話題になっている、佐々木俊尚さんに絡んだ広告業界の人のやりとりを見ました。

 

佐々木俊尚氏に絡む広告業界の人たち

 

ネット世界での言動と、リアル世界の言動にはもう差はない、と思わされた出来事です。ぼくは今25歳なのですが、2chのような掲示板やmixiのような内輪感が強いSNS(今はどうだか知りませんが...)にどっぷりとは浸かっていないですが、多少は利用してきました。ぼくの中ではまだネットというのは閉じた空間、なんでも吐き出せる空間というイメージが少ないながらあったんですけど、今回の件で考えが改まりました。

一昨年からtwitter、去年からfacebookを初めて、facebookでは実名、顔写真を載せています。twitterもアカウント名を実名、顔写真も載せようか迷っています。発言に責任を持とう、という思いもありました。しかし、今回の件でぼく自身、発言に対する責任感への欠如に加え、ネットを甘く見ていたなと思いました。やはりfacebooktwitterのようなプラットフォームがネットとリアルの差を一気に縮めたように思います。

 

しかし、ネットに対してネガティブな思いはなく、ポジティブな思いしかありません。やはり、影響力がある各界の著名な方々の言葉を実際に聞けるのはいいですし、コンタクトをとることもできる。これって本当にすごいことで、2年前のtwitterを使ってなかった頃って、ぼくはどのようにしてお気に入りの人の情報を集めてたっけ?と考えてしまったほど。twitterから知ることができた方々も多いですし。

facebookでは長く連絡をとっていなかった中学、高校の友達の近況を知ることができてますし。"いいね!"が気軽で、とても好き。

ブログではこうやって自分の考えを書いて、もしかするとあなたのような方に読んでもらえて、さらには後から自分の記事を検索出来てしまう。日記帳を持ち歩かなくてもいいし、どこに何を書いたのかはキーワード検索で一発。

本当にソーシャルツールには感謝しています。

 

その中で自分に対するメリットの面にだけ、光をあててきたわけなんですけども、「発言の重み」というものに対する考え方は甘かったです。本当に甘かった。

著名な方にしか「発言の重み」はないと、なぜか漠然と考えていました。しかし、そんなことはないんだと。「発言の重み」は誰にでも存在する。だからこそ自分の発言は、リアル社会で上司にいう、仲間にいう、家族にいうのと同じ重みだ。ネットは直接語りかけているわけではないので、若干、リアルの自分なら言わないようなことも言ってしまうけれど、自分の発言になる。

 

個人に対して、かつてないほどの言論の自由が与えられた分、リアル、ネットに関わらず、自分の発言には強い責任感を持たなくてはならないんだな。今の時代、ネットだからといって誹謗中傷を書くのはもってのほか。自分自身の破滅につながるということを改めて認識。

小学校、中学校でも情報リテラシーの教育は必要なんじゃないかな。まあ、トライ&エラーで学んでいくのもいいけど、なるべくなら、躓かなくていいところで躓いてほしくないからさ。

 

参考ブログ

「佐々木俊尚氏に絡んだ人たち」が本当に恐れるべきもの 青木 勇気

 

 

 

電気自動車に関する問題点 【001 リチウムの埋蔵量】

マグネシウム文明論」を読んでいたら、電気自動車に関する問題点が指摘されていた。

 

それはリチウムの埋蔵量の問題である。

普通乗用車が500kmを走行するために、100kWhのエネルギーが必要だと言われている。

そして100kWhのエネルギーを現状のリチウムイオン電池を使って実現しようとすると、リチウムが8.7kg必要となる。(リチウムのもつエネルギーを100%利用できたとして)

ここで現在、世界には9億台以上の自動車が走っているので、すべてにリチウムイオン電池を搭載すると、必要なリチウムは780万トンとなる。そして、リチウムの確認埋蔵量は現状で1100万トンと言われている。

 

以上は、本文をぼくなりに簡潔にアレンジしている。 

 

確かに、すべての自動車を電気自動車にはできそうにない。やはり電気自動車は都市部もしくは都市部近郊での移動用に適している。都市部では長い走行距離は必要ないので、電気自動車でも十分にメリットはある。そしてぼくにとっては、蓄電機能はやはり魅力的なのだ。

都市部では電気自動車のシェアカー、長距離の移動は「マグネシウム文明論」が主張するマグネシウム空気電池のクルマのレンタカー。こうすることによって、よほどのクルマ好き以外は、クルマの所有から逃れることができる。1日のうち80~90%以上、使っていないものを所有しなくていいのだ。そして所有していなくても、所有しているとほぼ変わりなく、クルマという移動手段を使用することができるだろう。こうなってくると、ぼくにとってますます都市部に住む魅力が出てきてしまうな。

 

余談だが、リチウムは核融合発電の燃料としての使用も期待されているので、数10~100年後には、核融合発電用としても用いられる可能性が高い。

しかし、鉱石としてのリチウムの埋蔵量が低いことは知っていたが、海水にも含まれているので無尽蔵にあると思っていた。しかし、海水から抽出するには多額のコストがかかるということを知らなかった。まだまだ勉強することは多くあるな。

電気自動車に期待!期待!!期待!!! -【本】「考えるクルマ」が世界を変える ウィリアム・J・ミッチェル / クリストファー・E・ボローニ=バード / ローレンス・D・バーンズ 著、室田 泰弘 訳

本書を読んで、電気自動車には期待が持てると確信した。

本書の初めに出てくる、クルマのDNAを変えるという表現がいい。自動車が世の中に普及して、約100年。著者が言うには、進歩はしているが、進化はしていない。100年間、ずっと同じDNAなのだ。そして、電気自動車が自動車のDNAを変えると明言している。

 

自動車の開発段階には、3種類の候補があったのだ。

1つは現在の自動車、内燃機関をもつものである。これは構造が複雑になり、可燃性の燃料を用い、騒音が大きく、悪臭がする排気ガスを出すことが課題であった。さらにエンジンから駆動系への動力伝達にはギアシステムが必要である。2つ目は蒸気機関をもつ自動車。この自動車は走るまでに30~45分ほどかかるのこと、50キロも走れば水の補給が必要であることが課題であった。そして、3つ目は電気自動車だったのだ。もう、自動車の開発段階から候補になっていた。しかし、バッテリーの充電に長くかかり、交換は高価で、満充電で走行できる距離が限られるとの問題があった。人々はどの推進システムが自動車交通にふさわしいのか、決めかねていた。

これらの中から、技術、製造ノウハウ、ビジネススキル、エネルギー供給体制、道路整備、公共政策、そして消費者需要がめざましく収束したため、内燃機関の自動車が主流となった。加えて、ランサム・オールズとヘンリー・フォードによって、大量生産の基盤ができ、安価になり、一般市民の多くが購入できるようになったことも、内燃機関自動車の普及の重要な要因である。

 

電気自動車はコンピューター制御ができるため、アクセルやブレーキの踏む感触を自在に変化できるらしい。ソフトをインストールすれば、軽いタッチで走ったり、踏み応えのあるタッチにもできてしまう。その日の気分によって、車を実際にいじることなく、ソフトのインストールのみでできてしまうのだ。さらに、加速の臨場感を出すためには、音響によって臨場感を高めることも検討しているようだ。

ソフトだけではなく、ハード面でも、ボディのフレームや内装、ボディの形等も、自由に決められる構想あるようだ。

まるで、自分好みのPCにするような感覚で、自動車をカスタマイズできてしまう。誰にでも簡単に自分オリジナルの自動車に乗れてしまうのだ。

 

電気自動車による都市構想では、スマートグリットによって、電気自動車も都市と接続するという構想。現在の都市には、蓄電能力はほとんどなく、発電所の運転を制御することで電力量を調節している。主に、火力発電によって制御している。この理由としては、火力発電所は起動・停止が比較的簡単にできる(原子力発電と比べて)ためである。調節もしても余ってしまう場合は、垂れ流しである。

この中で、都市に電気自動車が普及することは、蓄電池が都市中に散りばめられていることになる。都市自体が巨大な充電池になるのだ。その電池から、スマートグリットを使って、効率的に電気を配置する。電気自動車はネットに繋がっているので、各自動車の充電状況も詳細に把握可能だと思う。

著者はここで、再生可能エネルギーと電気自動車をスマートグリットでつなげる構想を打ち出しているが、この構想は現在で考えられる究極系の1つだと思う。私はこの究極系の前に、原子力エネルギーを使用するプランが入ると考えている。原子力発電による安価な夜間電力を、電気自動車に充電しておくのだ。家庭では、車を使用しない日は、車の電気から使っていけば電気代の節約にもなる。また、家庭では太陽光発電によって、電気自動車に充電しておいてもいい。余った電力は電力会社に売ってしまえばいいのだ。

太陽光発電が各家庭に安価に普及するようになれば、原子力発電を新たに新設しなくても、大丈夫になると思われる。もう日本における原子力発電の新設は厳しいと思うから、太陽光発電の普及には期待してしまう。

 

電気自動車の普及でさらに期待するのは、乗り捨て型のカーシェアリングである。車が大好きな人もいるが、「車は移動手段」と割り切っている人もいる。カーシェアリングは後者の人達向けであり、現在でも、少しずつながら都市部で行われている。

私は車は所有せずに使えればいいので、カーシェアリングの普及を強く望んでいる。自動運転機能が一般化すれば、自分の場所まで車が迎えにきてくれるのだ。なんてすばらしい!さらに、ネットにつながっているので、空いている車を、レンタルカーがない地域へ配置させておくことが可能であり、これにより私たちは乗りたい時に少ない待ち時間で乗れるようになる。

 

さらに期待していることもあって、自動運転が可能になれば、荷物の配達もすべて自動でできてしまう。荷物を乗せた小型車が家の前まで届けてくれて、着いたらケイタイやPCに連絡をくれるシステムを構築できる。運送業の労働から私たちは解放されるのだ。そして、運送業の人材を他の必要な産業にまわすことができる。

 

電気自動車は今後、私たちの生活を便利にするキーアイテムの1つであると思う。