れいじのなかのれいじ

神威怜司のbookメモ&思考メモです。

日本の未来も、研究論文も結局構造は同じ。

本の前書きを立ち読みしながら、ふと思ったことを備忘録的にメモ。

 

文章の構造って、極論どんなものも同じなんですね。自説を引き立たてるために、引き立たせるための材料をもってきて文章を作る。こんな簡単なことに気がつかなかった。

 

私は日本の未来や世界の未来を書いている本を好んで読むのですが、当たり前ですけどいろんな説があります。「このままいくと日本は財政破綻だ」、「日本人は世界に出ていかないと職はない」、「日本は終わりだ」といった私にとって比較的悲観に考えている論調。一方で、「財政破綻はない」、「日本人は確かに貧乏にはなっていくけど、豊かな生活は可能である」といった楽観的な論調。私は楽観的論調が好きなのですが、悲観的論調の本にも手を出してしまい、「このままの自分じゃ生き残れない」、「やばい」と焦るわけです。手を出さなきゃいいものも、ついつい気になり手を出して凹んでしまう。なんだかなー、と思うわけです。

こういうモヤモヤした思いを抱えながら読書をしてきた訳ですけど、今日、スーっと霧が晴れたような感覚に包まれました。

 

これって研究論文と非常に似ている構造じゃないか?

 

ぼくは一応、大学院生ですので、研究分野に関わる論文を読むわけです。例えばあるセラミックスを作る際には、粉から作る方法、液体から作る方法、ガスから作る方法等、いくつかの作り方があるわけです。簡単に作り方A、B、Cとしましょう。

するとAの作り方で書いている論文はAがB、Cよりも優れている方法であると書いてあるわけです。一方、Bの作り方で書いている論文はA、Cよりも優れているとなる。Cにおいても同様です。しかし、どれがいい方法かというのは結局のところわからない。確かに「この方法が一番優れてそうかも?」というのはあるんですが、その方法にもクリアすべき難しい難題があるわけです。そしてその難しい難題は、他の方法では安易にクリアしてたりするわけです。その代わり、他の問題点があるのですが...。なので中には比較をせずに書いてある論文もあります。

 

なので上記の話を日本の未来や世界の未来のそれぞれの論調に当てはめてみると、結局はどれが正しいかわからないわけです。私は今まで何に怯えていたんだろうと思いました。人間は生命の危機を感じる情報については特別なものとして考えてしまうんでしょう。とりあえず「やばい」、「なんとかしないと」といったことしか思いつかない。身近にある研究と同じ構造というのが、全く見えていませんでした。

でも別の例で考えてみると、構造はなんら変わらない。Aの作り方が実用化へ有力だと思われていても、最後のクリアすべき課題がないと実用化はない。そしてその課題は地道に解決していくしかない。その間に、Bの方法の研究も進んでいるので、もしかするとBの方法が一気に花開くことだってある。繰り返しになりますが、結局わからないのです。

 

今有力なものが、未来も有力とは限らない。

 

だから悲観的だろうが楽観的な説を信じようが、どちらも実現していない以上、実現するまではわからない。だったら自分が「いいな」と思う説を勝手に信じようかなと思えました。勝手に焦っていても仕方ない。

備えは必要かもしれないが、その備えが役に立つとは限らない。

 

そんな中、今私ができるのは、目の前のやることをとりあえず片付けること。

さぁ、とりあえず片付けようか。